待降節が始まりました。ここで私たちは、「待つ」ことの意味を学びます。私たちは、この世の歩みをどのように受止めて歩めばよいのでしょうか。そこにおいて私たちが体験する様々な痛み悲しみにも意味があります。本当に大切なものに目を向けて歩ませるため、イエスはこのような体験を弟子たちにさせています。私たちは不完全な者ですが、それでも、共にいるというイエスの約束があるから、安心して歩んでいけるのです。
“大いなる力と栄光を帯びて来られるその日”のことを思い起こさせます。本当の意味での神との出会いは、私たちの正しさや熱心さによって実現されるものではありません。私たちの救いは、イエスの十字架と復活によって与えられるものです。私たちが、イエスの前に立つ事が許されるとすれば、”イエスにゆるされた者として”立つのです。そこを目指して歩むのが私たちの信仰です。死後の話しをしているのではありません。私たちが生きている今、イエスの前に立っていることを今日も意識して歩むのが教会の信仰だからです。しかし、今の私たちにはその事が隠されています。ですから、「いつも目覚めていなさい。」とイエスは強調されるのです。本当に大切なものがどこにあるかに目を向けなさい。この世を支配しているものに目を奪われることのないように、「目覚めて、祈りなさい。」と語ります。
世の終わりに伴う、様々な徴にはどんな意味があるのでしょうか。それは、私たちを脅すためのものではありません。それなら、そこにはどんな意味があるのでしょうか。ルカは、「神の出来事に対する人々の反応」に関心を寄せながらこの神秘を語っています。
「その時 諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう」
こんなことばを聞いたら私たちは混乱してしまいます。しかし、イエスは人々を脅すために語っているのではありません。イエスはここで何を語ろうとしているのでしょうか。生死に関わる危機が迫った時、恐れを感じるのは当然の事です。今まで頼りにしていたものが崩れ去ってしまう……という体験の中で私たちは何を学ぶのでしょうか。
ユダヤ人たちは、自分たちこそ、神に選ばれた民であると考えて生きていました。壮大な神殿は、彼らの信仰の強さを表すものでした。イエスは、その神殿をも含めて全てが滅びる時が来ると語ります。しかし、「天地は滅びても、わたしの言葉は決して滅びない」とマルコは語っています。(マルコ13・31)私たちが本当に頼れるものは、このイエスの約束です。しかし、これを聞いた人々の反応は……。相変わらず混乱と恐怖の中にあります。これも私たちの現実です。もし、イエスの約束を知らないなら、私たちにとって、この世の現実は余りにも過酷な現実です。しかし、イエスの存在を知っている者にとってそれは「救いのしるし」となるのです。同じものを見ながら、同じ体験をしながら、人々の反応はどうして分かれるのでしょうか。イエスにとって、世の終わりとは、「救いの完成の時」です。私たちの救いが完成する恵みの時です。それ故に、これらの事が起ったら、あなた方の救いの時が近づいていることを悟りなさい…と語っているのです。
厳しい迫害の中にある人々を励ますために福音書は書かれました。神の約束を信じないならば、この世の予期せぬ出来事に、私たちは振り回されてしまうでしょう。そこには恐れと恐怖心しかありません。
「目を覚めて祈りなさい」……、このイエスの言葉を私たちはどのように生きればよいのでしょうか。「あなたがたは、…… 人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(36節)。
そうです。神に心を向けるために、神の約束を思い起こすために、私たちは「祈り」を学ばなければなりません。私たちと共に祈るイエスがそこにおられます。そこで私たちは、共におられる神とその神の熱い思いに触れます。イエスから離れて祈るのではありません。祈りを知らない私の中で、私のために祈っておられるイエス。このイエスと共に祈っているところに深い意味があります。このイエスの祈りを、御父は私たち一人ひとりの叫びとして受け留めておられます。私たちの中で祈るイエスがおられるから、私たちの叫びも弱さや限界さえも、全教会を支える価値あるものとして新しい役割が与えられるのです。神は、イエスを通してそのような使命を私たちに与えておられます。私たちの貧しい祈りもそこでは、教会を支える力ある祈りにまで高められます。主の愛のみが、全てにおいて 全てとなりますように……。