イエスは、弟子たちに「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と語っています。それは、弟子たちが「自分たちの中で誰が一番偉いか」と議論していたからです。

イエスは、この言葉を通して何を教えようとしているのでしょうか。人よりも後になり、損をすることになっても、なお人に仕える道を歩んでいくことの大切さを教えておられるのでしょうか。しかし、このみ言葉をそのように読むことには落とし穴があります。それは、謙遜に人に仕えている人こそが、本当の意味で一番偉い人なのだ、という思いがそこに生まれてくるからです。そうなると、一番先になるために、偉くなるために人に仕える、ということも起ります。謙遜に仕えることにおいて人より先になろうとする思いが起ってくるのです。弟子たちが議論していたのもそういうことだったのです。誰が、一番イエスに仕えているか、弟子としての務めを忠実に果たしているか、ということを競い合っていたのかもしれません。弟子たちの中にあった思いは私たちの中にもあるものです。

 さらに、イエスは一人の子供を真ん中に立たせ、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とおっしゃっています。ここで語られている事は、「子供のように素直で純真な者になりなさい」という事ではなく、「このような子供の一人を受け入れる者になりなさい」ということです。それは単に子供を可愛がり、大事にすることとは違います。ここで言われている「子供」とは、人々から排除され、邪魔者と見なされている者の事です。社会において数に入らず、一人前とは見なされていない人々の事です。そのような人々の代表として、イエスは子供を真ん中に立たせ、この子供のように低く見られている人々を受け入れ、その人と共に生きる者となることを求めているのです。自然的には受け入れたくないと思うような人を「わたしの名のために受け入れなさい」と言うことです。それが、「すべての人に仕える者となる」ことだからです。これは、この世を上手に生きる知恵とも違います。むしろ、そのような人間的知恵に基づく生き方をやめなさいと言っているのです。受け入れ難いと思う者を受け入れ、歩み難いと思う者と共に歩みなさい、ということです。

 それは私たちにとって大変難しい事です。しかし、イエスは一人の子供を抱き上げてこれを語りました。イエスのもとに、たくさんの子供たちが安心して近づいて来ます。その子供を抱き上げ、祝福しておられるイエスの和やかさ…、反対に弟子たちの表情はどうだったでしょうか。実に対照的です。子供たちの集まりですからきっと騒がしい事もたくさんあったことでしょう。イエスはそういう事も喜んで受け入れておられたのです。すべての人の後になり、すべての人に仕える者となる生き方を通して、そのような和やかな人間となって福音を生きて欲しいという思いがここにあるのです。競い合う事ほど謙遜からかけ離れた生き方はありません。どちらの奉仕がより優れているかと比較して一喜一憂する思いは、福音とはかけ離れたものです。イエスの周りには、子供たちが安心して集まって来たという事実を忘れてはなりません。それが、神の国、天の国の姿です。

「天に輝くあなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって」。(詩編8・2~3)

 神は幼子や乳飲み子の口によってほめたたえられることを喜ばれる方です。その和やかさを生きることに、福音の基本があります。

「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。

 「イエスの名のために……」とは、イエスによって成し遂げられた救いのみ業のことです。イエスの十字架と復活によって成し遂げられた新しい命の恵みです。私たちの安心の土台はここにあります。それは、受け入れられるに値しない私たちを、愛と慈しみをもって受け入れて下さる神の恵みに感謝し、その愛に応えて生きる中で実現される恵みです。イエスによって受け入れられている事への感謝があって初めて、私たちにもイエスが示してくださった生き方が可能となるのです。受け入れ難いと思われる人を受け入れることには苦しみが伴います。その苦しみや痛みを負うことができるのも、イエスの十字架があるからです。私たちの信仰は、そこから生まれる感謝と喜びの中でなされる歩みです。

 そのつながりの中でイエスは、ご自分の受難予告をなさいました。弟子たちと共に、ガリラヤを通っていくその道において、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される、殺されて三日の後に復活する」とおっしゃったのです。イエスの十字架の苦しみと死は、イエスが「引き渡される」(31節)ことによって始まりました。それは、父なる神によってなされたことでもあったのです。

「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方が、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ロマ8・32 :パウロの言葉)

 受け入れ難い私たちを受け入れるために、神は御子を苦しみと死に引き渡されました。そしてイエスの復活は、神の愛がこの世の罪と死に打ち勝った瞬間です。その救いの恵みは、私たちのどのような罪によっても、決して失われてしまうことはないのです。この恵みの現実を考えるなら、誰が一番偉いかといがみ合ったり、争ったりすることは愚かなことです。イエスの救いにあずかり、その弟子として生きる私たちに求められている事は、「イエスのみ名のために、お互いを受け入れ合うこと」です。それを、イエスは一人の子供を抱き上げ、祝福することによって示して下さったのです。そこに、福音の示す世界があります。人間の本当の尊厳は、私たちが立派な人間になり、人よりも先になることによって得られるものではなくて、優しさとなごやかさの中でお互いを受け入れ合い、共に生きるところに実現されるものです。そこに私たちは招かれています。