十字架へと向かうイエスの道が示されています。しかし、これを聞いたペトロは、イエスをわきへお連れして諫め始めます。何故、ペトロはそんなことをしているのでしょうか。それは、イエスが語った言葉、すなわち、これからイエスが受けようとしている苦しみ、受難が受け入れられなかったからです。彼がそう思った事は当然の事です。

 イエスは三日後に復活することをも語っておられますが、この時点でのペトロたちには何のことか分っていません。イエスが苦しみ、捨てられ、殺されるなど考えられないことです、イエスの口からそんなことを語ってもらっては困る、と思ったのです。ですから、ペトロは師であり先生であるイエスを諌めてでも、正しい道に連れ戻さなければ…と思ったのです。彼がそういう思いを抱いたことの土台には、「あなたは神の子、メシア」と信仰告白した時の、彼のメシア観とも関係しています。イエスを "メシア 救い主" と信じる信仰は正しいものです。その告白を受けてイエスは、受難について語り始められたのです。問題は、イエスがどのような仕方でメシア、救い主としての使命を果たそうとしておられるかです。イエスがそのことを語り始めたとたんに、ペトロはイエスを諌め始めたのです。ペトロが抱いていた救い主の姿は、敵を打ち破り、栄光に満ちたメシア像でした。だからイエスの語ったことを間違いだと思い、それを正さなければと思ったのです。ペトロは救い主とはどのような方であるかを自分は知っていると思っていたのです。「あなたはメシアです」という彼の信仰告白をイエスが受け入れて下さった事によってペトロは、今度はイエスの間違いを正してあげなければと思うようになったのです。神の導きの中で生きているはずの私たちにも、そのような落とし穴があるのです。神の恵みとはこういうものであり、イエスによる救いとはこのようなものだと思い込み、そこに捕われてしまうのです。神の恵みが分かり、イエスによる救いが分かるから信じる恵みも頂きます。しかし、その分かることを増やしていくことによって信仰が深まる訳でもありません。「分かる」というのは、ある意味では危険なことです。何故なら、私たちには自分が分かったと思ったことに捕われてしまう危険もあるからです。

 本当の信仰とは、神によって、常に新しく分からせて頂くことです。新しく分からせて頂くことによって、今まで「分かった」と思っていたことも打ち砕かれていきます。そういうことの繰り返しが信仰の歩みです。神によって、常に新しく分からせて頂き、それによって変えられていくということが大事なのです。これを忘れると私たちは、自分が分かったことに捕われて、ペトロのようにイエスの言葉さえも受け入れずに、間違っていると思うようになってしまいます。私たちは、福音によって常に新たに変えられていくべき存在です。分かったと思っている自分の判断に基づいて福音を理解する事ほど危険なことはないのです。

「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 主は、ペトロを厳しくお叱りになっています。「サタン」とまで言われたペトロ。でも、ペトロが悪党だと語っているのではありません。問題はペトロが、「神のことを思わず、人間のことを思っている」ということでした。それは自分の思いに基づき、「分かった」と思い込んでいることです。神の言葉に聞くよりも、自分が分かったと思っていることに信頼して重きを置いているいる、その考え方をイエスを諌めているのです。私たち人間は、良かれと思って始めた事によってさえも、神のみ心に敵対する生き方してしまう者なのです。ですから、イエスが神の国の福音を宣べ伝え始める前に、荒れ野でサタンの誘惑を受けられた事には大きな意味があります。飢えている人々がたくさんいるこの世において、石をパンにして、その飢えた人々に与える事はよいことではないか、ということにも危険があるのです。一見、最善の方法のようにも見えます。サタンはそのようにして、私たちを神のみ心からずらそうとします。ペトロがここで体験した事は、まさにその事だったのです。

 そのような私たちにイエスは語ります。「引き下がれ」というイエスの言葉は、「私の後ろに廻れ」という意味です。「どこかへ引き下がれ」ではありません。イエスはペトロに、そして私たちに、本来あなたが立つべき、正しい位置に戻って、そこからわたしについて来なさいと語ります。それはどこでしょう。イエスの後ろです。「イエスの後ろを歩み、イエスについていく」、これが弟子としての私たちの姿です。ガリラヤ湖で網を打っていた弟子たちにもイエスは同じ言葉で語られました。「私の後ろについて来なさい。」この招きによって彼らは、イエスの後ろに従って行く本当の弟子となったのです。イエスをわきへ連れ出して、諌めようとするペトロの姿はイエスの前です。イエスの前に立って、その歩みを妨げ、自分の思いによってイエスを導こうとするペトロの姿です。そのようなペトロにイエスは、「わたしの後ろに、あなたの本来の位置があるよ。そこにもどりなさい!」と語っているのです。それが「引き下がれ」という言葉の意味です。

 救いの恵みや神のみ心が分かるようになることは素晴しい事に違いありません。しかし私たちの信仰は、その分かったことによって前進するのではありません。それらを分からせて下さる方の望みがどこにあるかが大事です。そのために、自分が分かっていることに固執せず、むしをそれを手放しながら歩みなさいと語っているのです。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 イエスを信じるとは、私たちが、自分の持っている何かを土台にして生きることをやめ、イエス・キリストの後ろにつき、イエスが示して下さる道を歩む者となることです。