ガリラヤ湖の向こう岸に渡ったイエスを多くの群衆が追いかけて来ました。ヨハネがここで見つめようとしているのは、この群衆に、イエスがどのようにして食物をお与えになったかです。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」とおっしゃっています。近くに町があるわけではなく、多くの人々の空腹を満たすためのパンを買って来ることなどできない場所でした。そういう場所に、イエスは弟子たちを伴って来られたのです。この人たちの、空腹を満たすパンをどこから得たらよいか、と弟子たちに聞かれます。それは、私たちを本当に生かす命のパンとは何であるかに気付かせるためです。

イエスは、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(34)とイエスは語りました。しかし、弟子たちはイエスのこの言葉を忘れています。

 弟子たちには、自分たちの乏しさしか見えていません。しかしイエスは、彼らが持っている五つのパンと魚二匹を受け取り、それを用いてみ業を行われます。五つのパンで多くの人々を満腹させたという話しは、他の福音書にも出てきます。しかしヨハネ福音書には特徴があります。それは、五つのパンを取ってイエスが唱えた祈りが、ここでは「感謝の祈り」となっていることです。他の三つの福音書では「賛美の祈り」です。「感謝の祈り」というのは、過越の祭で祈られた過越の食事です。イエスはパンを分け与えるに際してその祈りを祈られたのです。

 エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民が主なる神によって解放され、エジプトを出て約束の地へと向かうことができた、その神による救いを記念する重要な祭です。エジプト王ファラオはイスラエルの民を解放しませんでしたが、遂にそれを認めたのは、過越の出来事によってでした。イスラエルの家においても過越の小羊が屠られ、その血が戸口に塗られたことによって、それを目印に、主の使いはその家を過ぎ越し、通り過ぎて災いを下さなかったのです。このことによって、神がイスラエルの民を救おうとしておられことがはっきりと示されました。またイスラエルの人々にとってこれは、過越の小羊が自分たちの身代わりとして殺されたことによって奴隷状態からの救いが与えられたということをも意味していました。この救いの出来事を記念するために過越祭が行われたのです。その中心は過越の食事です。

 ヨハネ福音書は、しるしと過越の食事との繋がりに目を向けながらイエスの使命を見ています。それはミサ聖餐との繋がりです。私たちのための過越の小羊となって十字架にかかって死んで下さったことを思い起こし、その裂かれた体と流された血に与るために行われているものです。ですから、ミサ聖祭は「感謝の祭儀」と呼ばれるのです。イエスこそが真の過越の小羊であり、そのイエスによって、私たちは神が約束された救いに与ることができます。

「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しでも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた。集めると、人々が五つの大麦のパンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」。

弟子たちは、残ったパンを集めるために用いられています。十二の籠は十二人の弟子と対応しています。ヨハネはこのことにも意味を持たせています。残ったパン屑を弟子たちに集めさせたのは、少しでも無駄にしないためでした。この「無駄になる」は「滅びる」という言葉です。父なる神のみ心は、イエスを信じてその救いにあずかった者が一人も滅びないで永遠の命を得ることです。少しでも無駄にならないように、というイエスの言葉はこの父なる神のみ心を表しているのです。弟子たちは、そのみ心の実現のために用いられているのです。私たちも同じです。その神の救いのみ業の前進のために、私たちは教会に導かれ、信仰の恵みを与えられているのです。私たちが人を救いへと導いたり、信仰を与えたりすることはできません。それは全て父なる神が、独り子イエスによって、聖霊の働きによって成し遂げて下さる恵みです。私たちに出来ることは、その救いのみ業において、残ったパンを集めるようなものです。それはほんの些細なことでしかありません。しかし、イエスによって与えられている神の救いの恵みが無駄にならないように、救いに招かれている人が一人も滅びないように、私たちも主のみ業の協力者となるよう招かれているのです。

 人々はこのイエスを、自分たちの王にしようとています。それは、皆を満腹にして欲しいということです。しかし、イエスはそのために来られたのではありません。確かに、イエスは命のパンであり、神の救いの恵みによって人々を満腹にし、永遠の命を与えるために来られた方です。しかしその救いをイエスは、王になることによって、権力と力を得ることによって実現しようとはなさらないのです。神の救いのみ業は、人間の権力や力によって成し遂げることのできないものです。イエスの十字架の苦しみと死によってこそ実現するものです。強さによってではなく弱さの中でこそ実現する救いです。

 自分の持っているパンをいくら増やしても、それによって真の救い、安心は得られませんしそこに救いもありません。人間の善意をいくら結集しても、何の役にも立たないのです。そういう現実の中で、御独り子をお与えになる程の神の愛が示されているのです。私たちが神の救いを信じるというのは、この救いを信じることです。