「使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」(30節) 

 イエスによって遣わされた使徒たちは、イエスの元に来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告したことが語られています。彼らが行ったことや教えた事とは「宣教や多くの悪霊を追い出し、多くの病人をいやしたこと」などであり、宣教の業です。(6・12~13cf.)。

弟子たちは、イエスから派遣されてこのような働きをし、そしてイエスところに戻ってきてそのことを報告しているのです。彼らの喜びや興奮が感じられます。その弟子たちにイエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」とおっしゃっています。イエスは弟子たちを「人里離れた所」へ行かせようとしておられます。それは、「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったから」(31節)ということもあるでしょう。しかし、最大の目的は、休ませるためだけでなく、弟子たちに「祈ること」を学ばせるためであったと思います。イエスご自身も、度々朝早く暗いうちに起きて、人里離れたところへ行き、祈っておられた姿を福音書は伝えて

います。(マルコ1・35cf)

 人里離れた所で、父なる神と向き合い、語り合う交わりの時をイエスは持っておられました。そのことを、弟子たちにも体験させようとしておられるのです。このような祈りの体験なしに福音の喜びを伝えることはできません。この時も、多くの人々がイエスのもとへ押し寄せて来ていました。かれらは、食べ物を求めてやってくる人々です。だからこそ、人里離れた所へ行って祈ることの大切さをイエスは強調されたのです。人間は、順調に行っている時ほど、自分の力で何でもできるように思ってしまい、神を忘れてしまいます。祈ることが必要なのは、困っている時、苦しみ悲しみの時よりもむしろ、順調な時、うまくいっている時であることを思い起こさせているのです。そのような時にこそ、その順調な働きを中断してでも、神と向き合い祈ることの必要性を教えておられるのです。弟子たちは、喜びの中で自分たちの順調な働きをイエスに報告します。そして、また、すぐに出掛けて行ってさらにその働きを続けよう、と思っていたかもしれません。そういう弟子たちにイエスは、今あなたがたに必要なのは、その働きから離れて祈ること、そして神のもとから自分を見つめ直すことであある、とおっしゃっているのです。

弟子たちはイエスに促され、イエスと共に出かけます。弟子たちだけでは、本当に休むことも、祈ることもできないことをイエスは知っておられるのです。私たちも同じです。じっと祈っているよりも、何かをしていなければ不安になるのが私たちの姿です。しかし、イエスはここで大切な事を教えておられます。祈りは何もしていないことではありません。

 病気や高齢のために、何も出来ない人々の痛みをイエスは知っておられます。祈ること以外何も出来ずにいる人々の存在こそが、実は教会の中で大きな働きをしています。目に見える奉仕だけが奉仕ではないのです。人知れず祈ることの意味と大切さを知ることができなければ、私たちの信仰はこの世的な価値観に振り回され、信仰とは言えない人間的なもので終わってしまいます。弟子たちにしても、人々の間で良い働きをすることができた、という満足感の中で、知らず知らずの内に、まわりからの評価に振り回される危険に陥っっていたことでしょう。そこをイエスは見ておられたのです。そのために、彼らに、人里離れた所で祈る時を持ちなさいと促しておられるのです。しかし、弟子たちだけでは祈ることもできません。だからイエスも同行しておられるのです。順調に行っているときほど、実は、祈ることは難しいのです。

 イエスと弟子たちは、人里離れたところへ向って出発しました。しかし、イエスが向っている場所を知っていた人々は、ここでも先回りをして待っていました。それほどまでに人々は、イエスの言葉に飢え乾いていたのです。その人々を見たイエスの思いが書かれています。それは、「飼い主のいない羊」のような有様でした。彼らを見たイエスは、「深く憐れんで」おられます。

 人々は、安心して自分を委ねることのできる飼い主を求めていました。そのような人々を見て ”深く憐れまれるイエスの姿”がここにあります。「深く憐れむ……」この福音書の言葉は、「内蔵が揺り動かされる」ほどの思いを示しています。内蔵が揺り動かされる思いを持って、苦しむ人々と関わろうとされるイエスの姿です。そこに、イエスと出会った人々の力があります。このイエスがおられるから、このイエスと共に歩むなら、何があっても大丈夫だという安心感が生まれたのです。私たちが頑張って何かを伝えるのではなくて、そのような人々の体験を通してイエスの福音は伝わるのです。私たちが頑張って何かを伝えるのではなくて、私たちのあるがままの現実を通して、神の愛は現わされるのです。神の愛のみが、すべてにおいて、すべてとなりますように……。

私たちの限界さえも、神の愛を伝えるための障害にはなりません。限界ある私たちから、これ程までに愛されることを望み、私たちの愛に飢え乾く神の姿とは何なのでしょう。神の愛に心を撃たれます。