ヤイロは、当時のユダヤ人たちの礼拝所(シナゴーグ)の会堂長の一人でした。まわりの人々からも尊敬されていたことでしょう。そのヤイロが、イエスのもとにやって来て足もとにひれ伏し、「わたしの娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」としきりに願っているのです。死の力が娘を飲み込もうとしています。自分の無力さを痛感しながら、苦しみと絶望の中で彼はイエスの足もとにひれ伏し願っているのです。 

まわりの人々は、イエスがどんなことを語るのか、ということに関心をもって集まっていたことでしょう。人間はそれぞれに、自分が生きてきたそれまでの体験に基づいて相手を判断します。ヤイロも、初めはそのようにイエスのこと外から眺めていました。しかし今、死にかけている娘を前にし、自分の力ではどうすることもできない力に脅かされる中で、イエスのもとにひれ伏し救いを求めているのです。地位も名誉も外聞もかなぐり捨てて、イエスに「助けてください」と願っているのです。それはまだ信仰とは言えないものです。しかし、溺れる者が藁をもつかむ思いでイエスにすがっています。苦しみの中から救いを求める人の思いを、イエスはしっかりと受け止められます。

彼らがヤイロの家へと向う中で新たな問題が起こります。十二年間病に苦しんでいた別の女性が群衆の中に紛れ込み、「この方の服にでも触れればいやしていただける」という必死な思いでイエスの服の裾にそっと触れます。イエスはこの女性の思いを敏感に感じ取られました。そして振り返り「わたしの服に触れたのはだれか」と言ってその人を探しておられます。この女性の苦しみに対しても、イエスは同じように、その思いを受け止めておられるのです。しかし、イエスが着く前に娘は亡くなります。それは一番恐れていたことでもあります。「もう、先生を煩わすには及ばない」という深い絶望と諦めの言葉です。藁にもすがる思いでイエスに救いを求めたけれども間に合わなかった、たとえ奇跡を行うことのできる者であっても、今となってはどうすることもできないはずです。ところがイエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言っています。

死の力を前にして泣くことしか出来ない人間の現実。しかし、人間が流す涙を神は決して無視されません。イエスは、私たちのために涙を流して下さった方であると同時に、そこに大きな意味と価値をも与えます。私たちのために涙を流すだけでなく、私たちを死の痛みからも解放して下さる方です。


 

「なぜ泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」。

すると少女は、深い眠りから目覚めたかのように起き上がります。イエスは、少女が死んだという事実を無視しているのではありません。絶望に打ちひしがれている現実をしっかりと見つめつつ、そこからの人間の救いを本気で準備して下さる方です。

イエスを信じ、イエスと共に歩んでいる人々にも試練は起ります。そこで「恐れることはない、わたしを信じなさい」とおっしゃるイエスの声が聞こえているでしょうか。私たちと共にイエスが歩んで下さっている限り、死の力が私たちを支配することはありません。定められた時まで、人間の世界から死はなくならないでしょう。しかし、神の御子イエスの前にあって、死の意味は根本的に大きく変えられました。

この奇跡をイエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちの前で行われました。そして、このことを誰にも知らせないようにと厳しく命じています。この奇跡を体験したのは、イエスに従って歩んでいる弟子たちだけです。イエスのことをあれこれと外から評価しているだけの群衆は、この体験をしていません。痛み苦しみの中で、エスの足もとにひれ伏し、救いを求めている者だけが体験することの出来る恵みだからです。

 イエスは十字架にかかって死んで下さることによって、死がもたらすこの痛みの現実をご自分の身に引き受けて下さいました。そしてそれに打ち勝たれました。イエスの十字架の死と復活によって、私たちを支配していた死の力は打ち破られたのです。私たちもいつか、必ず死の眠りにつきます。しかしその死は、もはや私たちを最終的に支配するものではなくなりました。神が私たちに、永遠の命を与えて下さることを約束して下さったからです。このことを信じるとき私たちは、「恐れることはない」というイエスの励ましの言葉を聞いているのです。

 私たちは、人生の中で体験する苦しみ悲しみの中で「恐れることはない。わたしを信じなさい」というイエスからの語りかけを受けています。そして、祈りの中でも私たちはこのイエスの言葉を聞きます。そこで、ヤイロとその家族が体験したように、私たちもイエスによって絶望が喜びに変えられる体験をしていくのです。それはイエスの十字架と復活から来る恵みです。イエスは、今も私たちの手を取って、「わたしはあなたに言う。恐れの中から立ち上がりなさい。勇気を持ってわたしと共に立ち上がりなさい」と告げているのです。わたしの思いではなく、神の御旨が実現されますように……。そのために私たちが用いられますように……。十字架上におけるイエスの祈りと全教会の祈りによって私たちが支えられますように……。