「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(5節)。

イエスは人々の不信仰に驚いています。神の救いのみ業を妨げてしまうほどの不信仰です。イエスは、私たちの不完全な思いであってもそれを受け止め、真の信仰へと導いて下さる方です。しかし、ここに登場する人々の思いは、このイエスを驚かせる程の不信仰だったのです。しかも、不信仰に陥っているこの人々はイエスの故郷(ナザレ)の人々でした。故郷の人々は、イエスを幼い頃から知っています。イエスが育った環境も見ています。その故郷の人々が、イエスにつまずいているのです。

「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」(2節)。

多くの人々は、イエスの言葉に示されている知恵と力に驚いているのです。その驚きの中で、人々は神の救いを見ています。やがてこの驚きが、救い主イエスへの信仰へと発展していきます。では、ナザレの人々においてはどうだったでしょうか。残念ながら、故郷の人々にとってイエスの言葉は信仰へと向けられるのではなく、むしろ つまずきとなりました。なぜでしょうか。彼らは、自分が知っている範囲内で、あくまでも一人の人間としてイエスを理解しようとしています。その結果、彼らはイエスにつまずきました。信じることができませんでした。それはイエスを理解していなかったということです。

イエスを受け入れた病者や弱い立場にある人々はどうだったでしょうか。彼らもイエスのことを正確に理解していたわけではありません。しかし彼らは、イエスを自分の理解できる範囲内で見つめているのではありません。彼らはイエスの働きに、人間の理解を超えた神の働きを見ていました。イエスの言葉やみ業を見て驚き、そこから信仰に繫がっていくか、それともつまずきとなるかの分かれ道がそこにあります。もし、イエスのことを自分の理解できる範囲内で捉え、理解しようとするなら、人間はつまずくしかないのです。

イエスを人間の知識内で理解しようとするのではなく、人間の力を超えた神の働きをイエスのうちに見つめながら、信仰を願い求めていくならば、そこにイエスを本当に知る道が開かれていきます。それが信仰へと通じる初めの第一歩です。私たちがその道を踏み出すならば、その歩みがどんなに不完全なものであったとしても、イエスは私たちと共に歩んで下さいます。そして、「あなたの信仰があなたを救った」と宣言して下さるのです。

 

 ナザレの人々は、自分が知っているイエスの姿のみを見つめようとしました。ナザレの人々は、ある意味ではイエスのことを誰よりもよく知っていたでしょう。しかし、イエスの言葉とみ業に示されている神の知恵と力については何も知ることができなかったのです。

イエスであっても、そこでは、ほとんど奇跡を行うことができなかったとあります。イエスの力あるみ業は、それを見聞きする人間の側に信仰がなければ意味がないからです。イエスが私たちに求めておられることは信じることです。しかし、力強く立派な信仰ではありません。イエスを通して差し出される神の救いの御手を受止め、その導きを願い求めればよいのです。そこにおいて、私たちの不完全な思いを真の信仰へと高め導いて下さるのは神ご自身です。イエスの奇跡はそこにおいて意味を持つものです。故郷ナザレの人々は、自分の知っている知識の範囲内でイエスを理解し捉えようとしました。人間を超えた神の恵みのみ業がイエスにおいてなされていることには目を留めようとしません。そういう人々の前では、どんなに大きな奇跡が行われても意味がないのです。

人間の知識や常識を超える救いのみ業がイエスにおいて実現しています。その恵みは、特にイエスの十字架と死、そして復活において実現しているものです。それは人間の知識を超えたことであり、人間の力だけで受止め切れるものではありません。神の恵みがなければ、私たちはこのイエスを本当に理解することも信じることもできません。ですから、イエスにおいて実現した神の救いの恵みを求める思いを聖霊が与えて下さらなければ、私たちはこのつまずきを乗り越えることはできないのです。先ず、私たち自身のうちに、人間の知識や常識を超えた神の救いの恵みが実現していることに気付く恵みが与えられますように。聖霊の働きに導かれ、変えられていく恵みを祈りたいと思います。