イエスと弟子たちは向こう岸へと漕ぎ出します。弟子たちも群衆も、イエスの教えを聞いていました。しかし、夕方になると、弟子たちはイエスの言葉に従って、イエスと共に沖へ漕ぎ出していきますが、群衆はそれぞれ自分の家へと帰って行きます。実はここに、弟子たちと群衆の違いが描き出されているのです。「あなたたちには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々はそうではない」(4・11参照)この言葉には深い意味があります。

群衆に対するイエスのたとえは、神の国の秘密がそのまま、隠された謎として語られています。しかし弟子たちには、その秘密が説き明かされているのです。イエスはそのように群衆と弟子たちを区別しておられました。群衆は自分の思いや願いを叶えてもらおうとしてイエスのもとに集まって来ているのに対して、弟子たちは、イエスに従い、イエスと共に歩んで行くことを望んでついてきた人々です。そこには大きな違いがあります。弟子たちは、「向こう岸に渡ろう」というイエスのみ言葉に従って、イエスと共に漕ぎ出しています。しかし群衆は、み言葉を聞いて、終わったらそれぞれの自分の家へと帰って行くだけです。そして、いつも通りの生活が始まります。群衆は、イエスの言葉を聞いても何も変りません。弟子たちはどうでしょうか。

彼らはイエスの言葉を聞き、イエスに促され、イエスと共に沖へ漕ぎ出そうとしているのです。何が待ち受けているか分からない新たな旅へと出発しようとしているのです。ここに教会の姿、私たちの姿も示されています。イエスを信じ、イエスに従って生きるとは、み言葉を聞いてそれで終わりではありません。イエスの思いに従って、イエスと共に旅立つことです。どこへ向かってでしょうか。私たちが決めることではありません。イエスが「向こう岸に渡ろう」とおっしゃる、その言葉に促されて漕ぎ出すのです。「向こう岸」がどんな所なのか、そこへ渡ると何が起るのか私たちには分かりません。しかし、イエスが共におられるから…安心して漕ぎ出すのです。そのようにして漕ぎ出した舟であっても突風が襲います。イエスの促しによって、イエスと共に漕ぎ出した旅であっても、予期せぬことが起るのです。時には、その重さに押し潰されそうになりながら歩んでいるのが私たちの現実なのではないでしょうか。

この突風に遭っているのは、イエスの言葉に従って沖へ漕ぎ出した人たちです。陸の上にいれば、そのような心配もいらないでしょう。岸にいた群衆たちは、この突風に遭っていないのです。嵐に襲われているのは弟子たちです。イエスの促しによって、イエスと共に沖に漕ぎ出した者がこの嵐に遭っているのです。これは大切な事です。突風とは、イエスに従って旅立った者に襲いかかる嵐です。信仰をもって生きている人にこそ襲いかかる危機です。この嵐の中で弟子たちも動揺しました。しかし、イエスはその時、「艫の方で枕をして眠っておられた」のです。

何と言うことでしょうか。「先生、私たちが溺れても構わないですか…。」当然の反応です。私たちの現実はどうでしょうか。

この世には様々な苦しみ、悲しみがあります。襲いかかってくる嵐の中で私たちは、共にいて下さるはずのイエスを見失っています。イエスが共におられるというのは本当だろうか。どんなに祈っても何も変らないではないか…。これが私たちの思いです。私たちを絶望の内に沈没させてしまいかねない状況です。しかし、信仰をもってイエスに従っていこうとする生き方の中でこそ、このような危機は訪れます。危機の中で発せられるイエスのみ言葉は、風や湖さえも従わせる神としての権威です。

 「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」。

このイエスがこの世に来られたことによって、神の国、神の愛による支配は既に始まっているのです。信仰の目で見なければなりません。神の国は、確実に前進しています。うろたえている弟子たちに、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と語りかけています。信じるとは、どういうことでしょうか。イエスを信じるとは、大丈夫、大丈夫、と必死に思い込むことではありません。どんな嵐の中でも怖がらない人間になることでもありません。危機的状況にあって、うろたえざるを得ない私たちにイエスは、

「私があなたと共にいる。私があなたを選び、私があなたを召し出した。それによってあなたは私に従い、私と共に旅立ったではないか。今は隠されている神の国、神の愛が、既にあなたを捉え、あなたを巻き込み前進しているではないか。そこに目を向けなさい…。」と語っています。

信仰をもって生きるとは、このイエスの語りかけを聞き、このイエスが共にいて下さることを信じて歩むことです。自分自身の中に、どんな嵐にも動揺しない確固たる何かを持つことではありません。それまでの弟子たちは、イエスを知っているつもりでいました。だからこそ、イエスと共に沖に向って漕ぎ出したのです。しかし今、自分たちが期待していたのとは全く違う状況に置かれ戸惑っています。そして、嵐を鎮めるイエスを前にして恐れを抱きながら、「いったいこの方はどなたなのだろう」と問い始めています。この恐れの体験の中で彼らの信仰が深まります。信仰は分かってしまうことではありません。本当にイエスと出会う時私たちは、むしろイエスのことが分からなくなる…不思議なことです。そこで生まれる問いの中で、イエスとの本当の出会い、交わりが始まるのです。この恐れと問いに直面するのは、弟子となってイエスに従って歩んでいく者だけでした。群衆には、このような恐れも問いもありません。イエスが十字架につけられた時、弟子たちは再びイエスのことが分からなくなります。イエスに従っていくことなどとてもできないと逃げ去ってしまいます。しかし、嵐に翻弄されている弟子たちの舟に、イエスは確かに乗り込んでおられます。

私たちがどんなに動揺しても、イエスは救い主としての歩みを貫かれます。「いったいこの方はどなたなのだろう」。弟子たちのこの問いへの答えは、十字架と復活におい与えられました。そのイエスが今、私たちに語りかけておられるのです。「あなたも、私と共に向こう岸に渡ろう」と。きっと、嵐は待ち受けていることでしょう。それでも、イエスがおられるから安心して良いのです。決して沈むことはないからです。