私たちがこのたとえから読み取るべきことは、イエスにおいて実現している神の国です。それは死んだ後に行くところではありません。神の国は、既にあなたがたのところに来ている、あなたがたの間で今まさに実現しようとしている、これがイエスの語る福音でした。どこかにある素晴しい国ではなくて、あなたがたが生きているその現実、あなたがたの人生そのものにおいて、神の支配が実現しようとしている、神があなたの日々の生活を恵みをもって導いて下さっている……、イエスはそう語っておられるのです。しかし、私たちの生きているこの世の現実において、その神の国は隠された神秘です。だから、“神の国の秘密”と表現されるような事柄なのです。隠された神の国を、目に見える現実に逆らって信じて生きることなど、私たちに出来るのでしょうか。

神の国は説明によって分かるようになるものではありません。イエスが語った言葉と行いは、神の愛を信じて生きる信仰の中で深められ、理解されていく恵みの神秘です。イエスが、たとえを通して語っておられるのは、神の国は目には見えないけれども、確実に前進し、成長しているということです。蒔かれた種は成長し、やがて実が実ります。しかし、どうしてそうなるのかは誰も知りません。種も見えなくなります。しかし、土の中で根を張り、成長していきます。人間は、その成長のための環境を整えているだけです。

 今は隠されている神の国ですが、神ご自身の働きによって、いつか必ず顕わになります。そのことが、「成長する種」のたとえにおいて語られていることです。「からし種」のたとえのポイントは、蒔かれる時には砂粒よりも小さい種が、成長すると空の鳥が巣を作れる程大きくなる、ということでしょう。神の国(神の支配)は、今の私たちの目には隠されており見えないので、この話を聞いても多くの人々は相手にもしないでしょう。それがこの世の現実です。それは、私たちのただ中に、隠された仕方で既にあるもの、そして今も成長しつつあるもだとイエスは語っています。この世の様々な力によって成長を妨げられ、なかなか実を結ばないという現実もあります。しかし最終的には必ず何十杯、何百倍の実を結びます。神の国はそのような豊かな実りへと向かって前進しているのです。神の国は私たちの外にではなく、私たちの只中に、私たちを巻き込んで前進しているのです。この隠された神の神秘の中を私たちは生きているのです。

イエスが私たちに期待していることは、このことを理解した上で、私たちもイエスと共に、神の国の完成のために協力する者になって欲しいということです。そのために、イエスと共に今、地上を旅しているのです。その神の国はイエスにおいて既に実現し、私たちを巻き込んで完成へと向かって前進しています。

 神の国の秘密が打ち明けられている弟子たちに、イエスは全てを説明されました。(ルカ4・11参照)しかし、外の人々にはたとえで語られています。どうしてでしょうか。

神の言葉を聞く力を持っているかどうかが大切なのです。神の言葉を聞く耳が必要なのです。それは、イエス・キリストに聞き従いたいという思いでみ言葉を聞く耳です。イエスは、そのような人々に福音を語り続けました。自分の考えや願いを基準に神のみ言葉を量り、これは価値があるとか、役に立たないとかではなく、神の側の観点から見つめなければそれは分りません。人間の思いや考えが、み言葉によって打ち砕かれることが大切なのです。多くの人々は、自分の思いや願いを叶えてもらおうとしてイエスのもとに来ます。自分の願いを基準に、み言葉を生きようとする生き方です。人間的な基準で役に立つか立たないかを決めています。彼らには神の国はいつまで経っても隠された秘密のままです。それは、彼らの思いが、神の国を受け入れず閉ざしているからです。

それに対して弟子たちは、及ばずながらも イエスに聞き従いたいという思いで歩んでいました。群衆が「外の人々」と呼ばれるのに対して、弟子たちは「内にいる人々」です。彼らにもいろいろな欠点や不完全さはあります。彼らと群衆の間に何の違いもありません。しかし、弟子たちはイエスに聞き従おうとしてイエスについて来た者たちです。その一点において、彼らは聞く耳を持っており、聞く力を持っていたのです。イエスはその弟子たちに、ひそかにすべてを説明されました。それは、たとえ話の意味を説明したということではなく、イエスにおいて神の国が既に始まっていること、それが今は隠されているけれども確実に前進していること、そして御父はいつかそれを完成させて下さるということを弟子たちに説明しておられるのです。

 しかし、イエスから直接教えを受けたこの弟子たちであっても、神の国の秘密が本当に分かっていたわけではありません。一番大切なところで彼らはイエスイエスを見捨て、逃げしまいました。イエスはそのような彼らをご自分の近くに置き、み言葉の種を蒔き続け、耕し続けて下さったのです。

一度ならず、何度も挫折した弟子たちでしたが、十字架にかかって死んだイエスの思いに出会った時、彼らは変りました。神の国は、人の思いを遥かに超える神の力によって前進し、実現していきます。弟子たちは、イエスの力に巻き込まれる体験をしながら、その中で、神から頂く新しい命の恵みが何であるかを分らせてもらったのです。イエスによって到来した神の国(神の支配)は、地上において今は隠されています。しかし、それは必ず成長し何十倍、何百倍の実を結ぶとイエスは約束しておられます。

私たち一人ひとりの生活は、この神の国の成長の中で、イエスによってもたらされる神の国の完成のために役立てられる恵みです。神は、その旅路において私たちを用いて下さっているのです。私たちの限界も、貧しい現実も、そこではイエスの死と復活によって価値あるものに変えられるのです。全てにおいて、主のみこころが行われますように……。