「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。」

 これから、イエスが歩もうとされる道を意識して書かれています。十字架に向かって歩まれるイエスの道です。イエスは力強いみことばや奇跡の根本的な目的は、神であるイエスを示すためのものでした。イエスが世に来られたのは、十字架へと進み行くことです。それこそ、神の救いの計画の実現だからです。周りの人々は、イエスを自分の下に留めておこうとします。しかし、イエスは人間の思いや願望に答えられる方ではありません。父なる神の意志に従って歩まれ方です。

 「ある人が走り寄って」イエスの前にひざまずき尋ねています。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。

 永遠の命を受け継ぐとは、神の救いに与ることです。この人は、イエスを試そうとしてこの質問をしたのではありません。真剣な思いでイエスにかけより、跪いて尋ねています。神の救いに与るにはどうすれば良いのか…。その答えを探し求めていたのです。「善い先生」と呼びかけるこの人に、イエスは、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と言っています。イエスは、ご自分が、神の下から遣わされた神の子であることを否定しようとしているのではありません。この人はイエスに、「永遠の命を受け継ぐために、何をすればよいのか」を聞いているのです。この人は、それまで、掟を守ることによって、神の救いに与ることが出来ると考えていました。彼が、幼い頃から歩んできた道です。しかし、その歩みを振り返ってみて、未だに、救いの確信は得られていないのです。そのために、イエスに尋ねています。この人にとってイエスは、救いを成し遂げて下さる救い主ではなく、救いに至る道を教えてくれる律法の先生です。この人にとってイエスは「先生」です。

 この人に対してイエスは、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と答えています。しかし、イエスはここで、何を語ろうとしているのでしょうか? それは、イエスがこれから行われるはずの、救いのみ業を見る事によって分ってきます。私たちを救うために、人となって来られたイエス。世に来られたこのイエスの存在そのものを通して初めて、その存在の大きさも分ってきます。そこを見なさい……と言うことです。

 それまでこの人は、イエスを「律法の教師」として見ていました。この人にとってイエスは、「偉大な先生」です。ですから、このイエスの教えによって、永遠の命に至る道を極めようと考えたことでしょう。しかし、そのような人生を歩む彼にとってイエスは、自分を高めるための手段に過ぎません。そこに、人間の思いによって救いを獲得しようとする思いがあることをイエスは見抜いているのです。イエスから、何か新しい掟を聞けるだろうと期待していたでしょうが、彼はイエスの言葉を理解していません。子供の頃から、十戒の掟を守って生きてきた彼の歩みを、より完璧なものにするためにイエスに問いかけたにも関わらず、納得の行く答えは得られなかったのです。掟を守ることによって、永遠の命を得ようという生き方は、自分の業によって救いを得ようとする人間の思いです。どこまで完璧に生きたとしても、それは人間の行い、人間の業を見つめる生き方なのです。

 十戒とは、神の恵みによってイスラエルの民に与えられたものです。神の救いを経験した者が、神の思いに応答して歩むための教えです。しかし、この人は、それを、自分の救いに与るための手段としてしまっています。十戒を、救いを得るための手段として聞いても、そこで語られている中身を生きることはできないのです。掟を守っている自分と、人間の業をみつめ、自己満足したり、他者を裁く生き方が繰り返されるだけです。愛とはほど遠いものです。イエスは、自分で自分の救いを得ようとするこの人の過ちに気づかせようとしています。しかし、この人は、何も分からず、自分は既にそれらのことは守っている……と、主張しているのです。

 イエスの言葉の意味が分からないこの人に対してイエスは、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富みを積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われました。それは、さら守るべきもう一つの掟を示されたのではありません。そうではなくて、永遠の命を得るために、最も大切なものが語られているのです。それは、「持っているものを売り払い」ということばです。この人は、自分の持っているものに固執していました。それは財産に限りません。救いに至るために、積み上げてきた自分の業や行いも含まれています。自分で善い業を積み続ける中で、自分自身の業を見つめ、人々を裁きつつ歩む生き方に救いはないのです。

「あなたが持っているものを手放しなさい」というイエスのは重要です。イエスは、福音を真に生きるためには、子供のようにならなければならないといわれました。子供は、生きていくために必要な知恵も財産も持っていません。自分が持っている何かによってではなく、何も持っていない無力さの中で、ただ神に委ねていきることしか出来ない者のことです。ここで言われる財産とは、自分が所有するものによって救いを得ようとする生き方の事です。自らの功績を積み上げて救いに至るのではないのです。大切な事は、神の救いの御業に依り頼むことです。「わたしに従いなさい」というイエスの招きに答えて歩み出す生き方です。それこそが、イエスを救い主として受け入れる生き方です。神を愛し、神を神として歩む生き方が何であるかを教えようとしておられるのです。

「しかし、この人は、イエスのこの言葉に気を落とし悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」

 残念ながらこの人は、イエスのもとを立ち去りました。ここで言われている「財産」とは、単に経済的なことだけではなく、この世を生きるためにこの人が依り頼んでいた全てのもののことです。ここで見つめられていることは、掟を守る生き方であっても、あるいは敬虔な信仰生活であっても、私たちが、自分の力で積み上げようとする全てのものが見つめられています。「この人」にとってそれは、子供の時から律法を破らずに品行方正に歩んできた生き方でした。それ彼の財産でした。

イエスがここで語っていることは、元々 自ら持っているものに頼って救いを得ようとする生き方をやめて、神によって与えられる救いに目を向け、その導きの中で歩むように…ということです。それが、イエスの言う「貧しい者、子供のような者となること」なのです。

しかし、この人は、イエスが語られた言葉の意味を理解出来ず、財産を手放すことも出来ず、イエスのもとを立ち去ってしまいました。この人に欠けていたただ一つの者とは何でしょうか?

 イエスは、ご自身の下を立ち去るこの人を慈しみの目で見つめておられます。イエスのもとを立ち去るこの人を慈しみの目で見つめるイエスの眼差しです。このイエスの先にあるものは何でしょうか? 言うまでもなく、それは「十字架」です。イエスの十字架は、まさに、この人のようなひとのためのものです。ただ、十字架において成し遂げられた出来事を受け入れることによってのみ、神の国は実現するのです。

 今日の福音に登場する人々と同じように、私たちも自分の財産を捨てられないでいる者です。そのような中で、イエスを「先生」と呼び、救いを得るために教えを聞こうとして集まってきているのです。そのような私たちをイエスは愛しておられます。自分で救いに至るための財産を積み上げようとする私たちに、真の救いがどこから来るのかを教えるために、イエスは死んで復活して下さいました。人間の思いを遙かに超える形で神による救いが示されたのです。

 この恵みに招かれている私たちは、このイエスをただ「先生」として仰ぐだけでなく、この方を真の意味で「主」と仰ぎながら、神の恵みの導きを生きる者となるよう招かれています。そのような歩みの中で私たちは、イエスによって与えられる永遠の命に生かされる者となるのです。主の導きに信頼しながら……。