神の救いが、抽象的なものではなく具体的なものであることを、イエスはご自分の存在を通して教えて下さいました。その事が今日の福音で示されています。この奇跡をきっかけに、私たちにとって真の食べ物とは何なのか、という事が語られているのです。パンを求めてイエスのところに大勢の人々が押し寄せて来ます。イエスは彼らに、「父である神が与えて下さる天からのパンこそ、死ぬことのない永遠の命である。このパンをこそ求めなさい」とおっしゃいます。

父なる神は、イエスを一人の人間としてこの世に遣わし、そのイエスを命のパンとして私たちに与えておられるのです。イエスというパンは、地上のパンよりも力あるものです。教会の歴史は、この天からのパンであるイエスの命に与って生かされてきた歴史です。抽象的な教えや思想ではなく、イエスという生きたまことのパンに連なって歩む者になりなさいという呼びかけです。その命のパンとは「わたしの肉のことである」と言われます。この言葉によって、ユダヤ人たちは、激しく議論し始めています。ユダヤ人たちだけでなく弟子たちの多くの者もこれを聞いて、「だれが、こんな話を聞いていられようか」と言って、イエスのもとを去って行ったと聖書は語っています。

 

十字架に架けられ鞭打たれ、槍で刺し貫かれたイエスの体、そこで流されたイエスの血が指し示しているものを私たちは見なければなりません。その肉を食べ、その血を飲むとは、このイエスの十字架の死によって実現した救いに与る事です。神の独り子であるイエスが、私たちの救いのために人間となってこの世を生きて下さり、私たちのために、十字架の上でご自分の肉を裂き血を流して死んで下さった……。神の独り子であるこのイエスが、私たちの救いのためにここまでして下さったのです。このことによって私たちもイエスの復活と永遠の命に繫がることが約束されているのです。イエスの約束を信じて、その救いに与るとは、単にイエスを受け入れるだけではなくて、私たちが心と体全体においてイエスに結び合わされ、一体となることです。抽象的・観念的な信仰ではなく、具体的・現実的にイエスを信じ、その救いに与りなさいということです。ミサの中で、聖体を拝領するのはそのためです。  

「わたしは、いつもその人の内にいる」と語っています。「イエスがいつも私の内に。私がいつもイエスの内に」……。そのような生き方が現実に始まります。それほど私たちは、イエスと難く結び合わされるのです。イエスの救いに与るとは、イエスと私たちの間にこのような深い関係が生じるという事です。イエスは私たちとの間にこのような関係を結ぶために来て下さいました。パンと杯は、十字架上で裂かれたイエスの肉と流された血を意味します。聖体の秘跡を通して私たちは、イエスと一つにされるのです。洗礼を受けた者はイエスとの間に「その人はいつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」という関係を与えられつつ、イエスとの関係を日々深めながら歩んでいくのです。

 「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」。

 「御父がイエスのうちにおられ、イエスも御父のうちにおられる」という関係が、イエスを通して私たちの間にも生じます。それがキリスト者の歩みであり、教会の歩みです。キリスト者とは、このイエスと一つにされ、私たちのうちにおられる神との絆を深いところで意識しながら生きている者です。そこに教会の信仰もあります。私たちは弱く貧しい者です。一人で信仰を生きることはできません。イエスの復活によって約束されている永遠の命を教会の信仰から来る恵みに支えられながら、信仰を生きるよう私たちは招かれているのです。

 聖体の秘跡に与る度に私たちは、イエスご自身と結び合わされその救いを体全体をもって味わいます。そして、イエスが約束して下さった希望を新たにするのです。イエスというまことの食べ物を与えられ、永遠の命に与ってきた教会の歴史を振り返りながら、私たちもイエスから与えられる新しい命に生かされる者でありたいと思います。