エルザレムへと進むイエスの道は、十字架に向かって一歩一歩近づいています。かつて、イエスが行かれるころは どこにでも群衆が集まって来ました。しかし今は違います。「イエスは人に気づかれるのを好まれなかった」と書かれています。十字架が近づくにつれ、イエスは人々の目を避けるようになるのです。それは、イエスが来られた目的が、驚くべき奇跡によって人々を引きつけることではなかったからです。この頃からイエスは、群衆の前で神の権威を示すのではなく、神の愛とゆるし、慈しみを語られます。その中で、ご自分の死と復活を予告されるのです。

「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される、殺されて三日の後に復活する」。

イエスは、弟子たちと共に ゴルゴタの丘、十字架の丘へと向かう その道の途中においてこれを語りました。二度目の受難予告です。一度目の時(8・31参照)は、十字架の出来事が どのようにして起こるのかが語られていました。しかし、今回は十字架の意味を説明しようとしています。しかも、人々の手に引き渡すのは御父であることを示しています。イエスの十字架は、神が独り子を 人々に引き渡すところから始まるのです。愛する独り子を罪人たちの手に引き渡し、十字架上で死ぬことは 父なる神のみこころである。御父はその決断をしておられる ということを弟子たちに語っているのです。イエスの十字架の背後には、人々を救おうとされる神の堅い決意があるのです。ですから一度目と違って、この二度目の予告では、長老、祭司長たちによってではなく「人々の手によって」引き渡されるということが強調されています。これは、イエスの苦しみと死の責任が私たちの側にある、ということを語っているのです。それは、単に十字架の死へと引き渡されるだけでなく、もっと深いところで、御父のみ手によってなされている という神秘をも語っているのです。

「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ロマ8・31)

パウロも語っている通り、イエスを死に引き渡すのは父なる神です。イエスはこの父のみこころに従い、私たちに代って死んで下さったのです。そして、復活は神の恵みの勝利を語るものです。その救いの恵みは、もはや どのような罪によっても、取り消されることは決してない というのが神の約束なのです。

 イエスがこのように私たちを受け入れ、共に歩んで下さっている中で誰が一番偉いかと いがみ合い、人よりも先になろうとする人間の現実とは…、なんと悲しいものでしょうか。そこから解放されるために求められているのは、“イエスのみ名のために”という動機です。それが「すべての人の後になり、すべての人に仕える者となる」生き方を可能にするのです。人間に与えられる本当の栄光、尊厳は、私たちが互いに受け入れ合い、共に生きていくところに生まれるものです。そのような歩みへとイエスは私たちを招いておられるのです。

当然のことながら、弟子たちには イエスの この言葉の意味が分りません。それだけでなく、そのことについてイエスに尋ねることも出来なかったのです。家に着いてからイエスは、「途中で何を議論していたのか?」と尋ねていますが、弟子たちは黙っていました。イエスは、父のみこころに従い 十字架に向かって歩む覚悟をすでにしておられます。しかし、弟子たちは…。この時、自分たちの中で「誰が一番偉いか」と議論していたのです。イエスと弟子たちは同じ道を歩んでいながら、全く異なる思いでいたことが分ります。彼らは、自分たちが心の中で 密かに抱いている期待を裏切られることが恐かったのです。

ここで、弟子たちがこだわっている事とは何なのでしょうか。それは単純に、人から賞賛される者になりたい ということではありません。弟子たちもイエスの弟子になる時点で、彼らなりに全てのものを捨てて ここまで従ってきたのです。この時の弟子たちが議論していたこと、それは「弟子としての歩みの中で、自分のやり方こそが 一番正しい」という思いです。このような思いは、信仰生活や奉仕の生き方の中でも、無意識のうちに現れることがあります。私たちは、イエスに仕える生き方を選びながらも、弟子たちでさえもそうであったように、いつの間にか 人間的な思いや価値観がそこに忍び込んでくる現実を知らなければなりません。

イエスは、黙っている弟子たちに対して、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われます。これは単なる謙遜の勧めではありません。自分は誰よりも謙遜に仕えていると思っている人がいるなら、その人は 自分こそは 一番偉い者だという思いに陥ります。一番先の者になりたいために、謙遜に人に仕えるという矛盾が生じてしまうのです。「誰が一番偉いか」と議論していた弟子たちの姿に、イエスは人間の持つ そのような思いを見抜いておられました。人間の集まるところ、どこでもそうですが 弟子たちの集団においても、誰が一番忠実に 弟子としての役割を果たしているか という無意識の競争があったのです。

 同じことは教会においても起こりうる事です。「謙遜になる」ということは、もちろん福音の大切な教えですが、自分は誰よりも謙遜に生きているという思いで、人よりも先になろうとするなら、それは人間の屈折した思いでしかなく、福音でもありません。ですから、イエスは一人の子供の手を取って真ん中に立たせ、その子を抱き上げながらおっしゃいます。「わたしの名のために このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と。

ここで語られていることは「子供のように 素直で純真な者になれ」と言うことではありません。「このような子供の一人を受け入れなさい」ということです。この時代、子供は取るに足りない厄介者でした。仕えることの意味を具体的に示すために、イエスはこのようになさったのです。仕える者となるとは、子供を受け入れる者となることです。しかも、私たちが受け入れやすく、かわいらしい子供の話しではありません。自分の願望を通すために駄々をこね、思い通りにいかないと激しく泣き叫ぶ子供の姿です。そのような子供を受けとめることです。弟子たちが、イエスに仕える中で 無意識に求めていたことは、自分たちの栄誉でした。自分に栄誉をもたらす人に仕えることは、それほど難しくはないでしょう。イエスはここで、「全ての人に仕える者になりなさい」言っています。それは、最も小さな者を受け入れなさいということなのです。

 イエスは、この小さな子供と ご自身を重ね合わせて語っておられます。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。キリストの名によって、子供の一人が受け入れられる所では、イエスが受け入れられているのです。イエスは、十字架において死なれることによって、最も低い立場に立って下さいました。しかし、反対に 弟子たちは、自らの栄誉のために上を見上げていました。イエスの十字架の意味が分っていなかったのです。

私たちは、すべての者に仕え、その中で神の愛を深く悟らされます。子供を受け入れることと、イエスを受け入れることは一つなのです。その歩みは、イエスの十字架と復活の意味をより深く知らされていく歩みでもあります。「受け入れる」とは、その人を仲間として認め 共に歩むことです。低く見られ、相手にされない人を仲間として受け入れ、共に歩む…。それが、イエスの言う「子供を受け入れる」生き方なのです。

根本的に受け入れ難いと思う者を受け入れ、共に歩むことが難しいと思う者と共に歩む、それは、大変厳しい教えでもあります。しかし、イエスはそれを戒めとして語られたのではありません。一人の子供を抱き上げて そうおっしゃったのです。

イエスの周りにはいつも子供たちが集まっていました。イエスは騒がしい その子供たちを喜んで受け入れ祝福なさいました。その中でイエスは「すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい」とおっしゃっているのです。謙遜の競争をしたり、奉仕の優劣を比較しながら一喜一憂する生き方とは無縁なのです。イエスの周りには、幼い子供たちも 一番最後の者も、安心して集まり、喜んで憩っていたことを知らなければなりません。それこそ、まさにイエスの語る「神の国、天の国」です。イエスの語る神は、幼子、乳飲みによって ほめ讃えられるのを喜ばれる神です。人を受け入れる生き方が、人に仕える生き方の基本であることを、イエスは身をもって示されました。

「イエスの名のために…」とは、イエスによって成し遂げられた救いのみ業のために、ということです。「救いのみ業」というのは、イエスが私たちのために死んで下さったことであり、イエスの復活によって与えられる新しい命の約束です。この救いのみ業を黙想することによって私たちは、自分が神に受け入れられていることを信じることができます。そこから人々を受け入れていく力を頂くのです。このことは、神から自分が受け入れられている恵みの中でなされていくものです。それが、イエスを信じて生きることなのです。

受け入れ難いと思われる人を受け入れて生きるとき、当然 大きな痛みと苦しみが伴うでしょう。その苦しみや痛みを私たちが負うことができるとすれば、それは先ず イエスが 十字架の苦しみと痛みを私たちのために甘受して下さった事実があるからです。私たちの生き方の土台には、このイエスの十字架と復活が 必ず先にあるのです。