ペトロは、イエスを救い主であると告白しています。そしてイエスは、ご自分の死と復活を予告します。ここからいよいよ、新しい局面に入り、受難へと向かうイエスの姿が本格的に語られ始めるのです。そのような中でイエスは弟子たちに次にように問いかけています。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と。これは、深い意味を持った問いです。

 人々は、イエスのことを「洗礼者ヨハネの再来」とか、世の終わりに現れるはずの「預言者エリア」と捉えている人たちもいました。しかし、一般の多くの人たちは イエスを神から遣わされた教師として捉えていたようです。

 イエスは、さらにお尋ねになります。「それでは、あなたがたは わたしを何者だと言うのか」。世間の人々ではなく、あなたがたは私をどう思っているのか。あなたにとって私は何なのかと弟子たちに問うているのです。世間の人々がどのように見ているかではなくて、あなたは わたしをどう見ているのか…。この問いかけは、私たち一人一人にも向けられている問いです。

 弟子たちを代表してペトロが答えています。「あなたはメシア(キリスト)です。」この言葉には、どんな意味があるのでしょうか。

「メシア」「キリスト」。それは「油注がれた者」という意味です。旧約時代、王や祭司などの特別な任務を授けられる人たちには、聖なる“油を注ぐ式”が行われました。現在でも、叙階式では同じような 塗油の式があります。

イスラエルの歴史において最も偉大な王であったダビデも、神によって選ばれ、油注がれて王として神からの祝福を受けますが、彼の子孫はそうではありませんでした。子孫たちの背きのために、ダビデに与えられた神の祝福は取り去られ、イスラエルが滅ぼされる憂き目にもあいました。しかし、それは主がダビデを王として立てて下さった時に 既に予告されていたことでもあるのです。

それでも神は、民への慈しみの心を変えることはありませんでした。神は御自分に誓いながら「わたしが、ダビデを裏切ることは決してない」と言っています。「あなたが ダビデに油を注いで王として立てて下さった時、あなたがなさったあの約束をどうか思い出して下さい」と祈る人々の嘆きに、神は確かに耳を傾けておられたのです。このような切なる願いの中から、本当の意味で「油注がれた者」が再び生まれるという約束が与えられます。そして、この神との信頼関係も強められていきます。このような背景から、油注がれた者=メシア という言葉は、「救い主」を意味するようになり、その到来を待ち望む人々の期待も深められていったのです。ペトロはそのような背景から「あなたはメシア、キリストです」と語っているのです。それは、「あなたこそ、私たちが長い間待ち望んでいた救い主。失われた恵みを 再び回復して下さる方」という願いが込められた言葉なのです。

これは、他の人々がイエスのことを 預言者や教師として見つめているのとは質が違います。一般の人々にとってイエスは、救いを獲得するための手助けとなる存在でした。この人々にとっての救いは、人間の力でどうにか達成できる事柄だったのです。それに対してペトロの宣言は、「イエスこそが本当の救いを実現して下さる方。私たちは自分の力でそれを獲得することはできない。」という前提での言葉です。世間の人々はどうであれ、自分にとってイエスは このような存在なのだ、ということをペトロは語っているのです。

 このペトロの信仰告白こそ、教会の土台となるものです。「イエス・キリスト」という言い方も、「イエスこそキリスト(救い主)である」という意味なのです。キリスト教とは、“イエスはキリストである”と信じる信仰です。イエスという人の教えを 人生の教訓や模範として生きるだけではキリスト教とは言えないのです。私たちは、イエスこそ 救い主と信じて イエスが望んだ生き方を模索しながら、イエスと共に生きるのです。たとえ 人間の弱さからくる欠点があろうと、そこに教会が築かれていきます。ペトロの告白を通して、キリスト教が何であるかを私たちは学びます。

 考えてみて下さい。あの欠点多きペトロが、どうして教会の土台となるほどの信仰を表明することができたのでしょうか。ペトロが素晴しい洞察力を持っていたからなのでしょうか。いいえ。福音書を見ても分りますように、彼はこの後も相変わらずイエスから度々叱られているのです。

このペトロの告白は、ペトロ個人でなされたものではなく イエスが彼の中から引き出されたものであることを知らなければなりません。これは、愛する弟子たちのためにイエスが全身全霊を傾けてなされた質問に対する 弟子たちの返答なのです。イエスは既に、祭司長、律法学者たちから排斥され殺される十字架への道を歩み始めておられます。その歩みの中で、「あなたはどうするのか」と、弟子たちに覚悟を求めておられるのです。それは、神の救いの計画への招き、イエスとの真の交わりへの招きです。

この問いによってペトロは、イエスとの真実な交わりへと導き入れられました。それは、イエスの招きによって与えられるものであって、ペトロ個人の努力や信仰によるものではありません。

むしろ、ペトロは勘違いをしていました。この直後、イエスが受難を予告された時、彼はイエスをわきへ連れ出して、「主よ。とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」とイエスをいさめようとしています。イエスを信じ愛するゆえの行動ですが、その時イエスから「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と厳しく戒められています。

ペトロには、イエスの考えが理解できませんでした。イエスがどのような仕方で救いを実現しようとしておられるのか分らなかったのです。しかし、そのようなペトロたちをイエスは命がけで導き、共に生きる交わりにまで導いて下さったのです。それがなかったら、イエス亡き後の弟子たちの歩みは説明ができませんし、あり得なかったことでしょう。

 これは、イエスが弟子たちと「フィリポ・カイサリア地方」に出かけた時の出来事と書かれています。そこは、皇帝を神として祀り、皇帝に忠誠を尽くす象徴のような場所です。イエスは敢えてそのような地方に弟子たちと共に赴き、そこで「あなたがたは私を何者だと言うのか」と問いかけ、ペトロの信仰告白を導き出されたのです。ここにもイエスの隠れた意図があったことが分ります。

  「あなたこそ救い主」という信仰告白は、様々な権力が支配しているこの世の まっただ中でなされるものです。この世の現実の中で イエスに従って生きることは、イエスを人生の教師と尊敬しているだけで十分ではありません。イエス・キリストを唯一の救い主と信じて歩む信仰がどうしても必要なのです。

イエスが捕えられた時、「そんな人は知らない、自分とは関係ない」と断言したペトロでした。イエスとの関わりを三度も否定したペトロでした。彼はまだ、本当の信仰に至ってはいなかったのです。しかし、そのようなペトロの裏切りを含めて、イエスは十字架に登って下さいました。そして復活したイエスとの新たな出会いによって彼は、「あなたこそ私の本当の救い主」と確信するまでに変えられていくのです。主は、弱いペトロを導き、最後は皇帝のもとで殉教の死を遂げるまでに変えられました。フィリポ・カイサリアにおいて、ペトロが信仰を告白できたことも、主の導きの中での出来事です。最終的に勝利したのは、ローマ皇帝ではなく、あの弱いペトロの信仰の上に築かれ教会でした。

この神の恵みを信じて生きる信仰へと私たちを招くためにも、イエスは「あなたは わたしを愛しているか」と問い続けておられます。しかし、その告白が出来ることは人間の力ではありません。ペトロを見ても分りますように「天の御父の恵み」によるものです。

人間は、いつの時代でも多くの苦しみと悲しみを背負った存在です。しかし、本当の悲しみはこの神を知らないことです。渇いている人が、生ける水の泉を知らないなら それこそが本当の悲惨なのです。私たちに必要なものは、神ご自身です。その神と共に生きることができる。それがどんなに大きな恵みであるかを知らなければなりません。このイエスに向かって、私たちもペトロが告白したあの信仰を告白します。それは、神の助けがあって初めて可能となる事です。

ペトロの信仰も イエスの十字架と復活を体験するまでは未熟なものでした。イエスに向かって、「あなたはメシア。私のために十字架にかかって死に、復活してくださった方、生ける神の子」と言い表す信仰は、弱い私たちの中からイエスが引き出して下さった信仰です。それこそが、教会の土台となる信仰なのです。イエスはこのペトロに「天の国の鍵」までも授けられました。なぜでしょうか? それは罪のゆるしを彼らに委ねられたからです。イエスが、天の国の鍵までもペトロに与えられるのは、私たちのために十字架上で死に、復活し、聖霊の導きを約束のとおり実現して下さったからです。