イエスにつながることによって、私たちはイエスがもたらす実を結びます。それは、「わたしの喜びがあなたがたの内にあるように…」というイエスご自身の喜びです。イエスはどのような喜びに生きておられるのでしょうか。イエスの喜びは、父なる神に愛されている喜びであり、私たちを愛して下さっている喜びです。それがイエスの喜びです。

父なる神に愛されているイエスは、父なる神を愛し、父のみ心に留まって歩まれました。そのみ心とは、イエスが私たちのために十字架にかかって死なれることでした。父なる神は、愛する独り子イエスが、私たちのために死ぬことによって私たちの救いを成し遂げることを願っておられたのです。イエスはご自分も御父を愛し、私たちをも愛し抜いて下さっておられる方です。そしてあのヨハネ3・16で語られていたことが実現しました。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

父なる神に愛されているイエスは、その愛に応えて、父なる神の私たちへの愛のみ心を実現することをこそ喜びとして歩まれたのです。このイエスの喜びが、私たちの喜びとなり、私たちもこのイエスの喜びに満たされて生きるようになる、それがイエスにつながる私たちの結ぶ実なのです。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。

父なる神に愛されたイエスが、ご自分の命を与えるほどに私たちを愛して下さった、その愛を受けた私たちは、その愛に応えて、イエスを愛して生きるのです。そして、イエスのみ心に従うことです。神を愛したいという心、それによって、私たちも互いに愛し合う者にならせて頂くと言うこと、これがイエスにつながる私たちに与えられる実りです。イエスの喜びが私たちの内にも満たされる時、互いに愛し合うという第二の実りも生まれるのです。

イエスは、そのためにご自分の命を捨てて下さいました。イエスは、罪人である私たちのために命を捨てて下さるほどに私たちを愛して下さった方です。これ以上に大きな愛はありません。その愛に応えて私たちも、安心して、友のために自分の命を捨てる愛に生きることができます。イエスが私たちに求めておられることもそこにあります。ここで言われている「捨てる」という言葉は「置く」という意味です。

イエスは私たちへの愛のゆえにご自分の命を十字架の上に置いて、死んで下さいました。その愛に応えて私たちも、自分の命の一部である時間を、また自分の知識や能力や技術、その他あらゆるものを、友を支え助けるために捧げることが出来ます。それが神の愛に応えて生きていくことです。どんな小さなことでも、友のために自分の何かを捧げること以上に大きな愛はありません。私たちに求められていることは、イエスが愛して下さったように互いに愛し合って(愛を置いて)、生きていくことです。それは私たちの決意や努力によることではなくて、神さまの導きによることです。どんな小さなことでも、友のために自分の命を用いていこうとすることによって、私たちはイエスご自身の喜びに生きることになるのです。イエスの喜びに、私たちも満たされるという実りが生まれます。そして、イエスの友となるという実を結ぶことが語られています。

「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と語られたイエスはすでに、私たちを友と呼んでくださっています。私たちのためにご自分の命を捨てて下さった方が、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と語っておられます。これは、すでに私たちに与えられている恵みです。そのイエスが私たちに、「わたしがあなた方を愛したように、あなた方もその愛を生きなさい。」と語っておられるのです。

「僕は主人が何をしているか知らない」のです。イエスは私たちを、友として関わってくださっています。友は相手を思い、相手が願っていることを誰よりも早く察知し、大切にします。イエスの思いは、父なる神のみ心と一つです。イエスはその父の思いを私たちに命を賭けて知らせて下さいました。私たちは、このイエスによって知らされた父の思い思いを生きる力を願うのです。それが、奴隷としてではなく「イエスの友」として生きる者の姿です。ぶどうの木につながっていなさい。あなたがたはその枝である。…とはそういう意味です。それがイエスによってもたらされる実りであり恵みです。

 その中で私たちは、神の愛イエスの愛が何であるかを体験的に知り、本当の意味でイエスの友となっていくのです。イエスにつながった者に約束された実りがそこにあります。それは、私たちが一生懸命頑張って自力で到達できるものではありません。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(16節)。

私たちが、イエスを見つけたのではありません。イエスがわたしたちを見つけ出してくださったのです。そしてご自分につなげて下さいました。イエスの恵みによるものです。私たちが自分の努力や才能によって実を結ぶのではなく、イエスの愛によって育てられ、イエスの愛に出会い、その実りを結ぶ者へと変えられて行くのです。

そこでイエスは、「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられる」と言われます。イエスに選ばれその枝とされた私たちは、イエスの愛を受け、互いに信頼関係の中で生きるよう者となるよう望まれています。

「互いに愛し合うこと。これがわたしの命令である。」

神の愛のみ心を知っているからこそ、イエスと共に神に信頼して生きることが出来るのです。イエスというぶどうの木につながれた私たちは、イエスを通してさらに豊かな実を結ぶことが約束されています。このイエスに信頼して身を委ねることができますように……。