私たちが信じている神は、父と子と聖霊の在り方をしておられる、それでいて唯一の神であられる、これが教会の信仰です。洗礼も、父と子と聖霊の御名によって授けられます。父と子と聖霊の神を信じる信仰によって教会の一員となるのです。父なる神、子なるキリスト、そして聖霊を唯一の神として信じる信仰など、人間の中からは出てきません。イエスを通して示された神の存在の神秘です。三人の神ではなくて、唯一の神の三つの側面として受止め信じる、それが三位一体の神を信じる「教会の信仰」です。

「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。それは、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)

 イエス・キリストが神の独り子であることが語られている聖書の代表的な箇所です。神が、その独り子をこの世にお遣わしになったことに神の救いのみ業が示されています。永遠の命に至る唯一の道がここに開かれているのです。

 私たちの救いを実現して下さったイエスが「神の御子である」とは、どういうことでしょうか。イエスは、天地創造に先立って御父から出てこられた方です。神であるイエスは、神によって造られた被造物ではなくて、天地万物が造られる以前から、それに先だって御父から生まれた方です。もし、造られたものであるなら、それは神ではありません。「御子は、全てのものよりも先におられた」と言う言葉は、イエスが神であることを示す言葉です。それゆえに、イエスは父なる神と共に、天地創造のみ業に関わっておられた方です。万物は御子において、御子のために造られました。イエスが神の御子であるということは、御父と共に天地の全てをお造りになった神であることを示す聖書の言葉です。

 その独り子イエスを、神は一人の人間として世に送られました。それは、御子が十字架において血を流し死んで下さることによって真の平和を世にもたらすためです。神との良い関係を失ってしまった私たちは、それだけに留まらず互いの間でも平和を失っています。本来の人間は、神の思いに応えてこの世界を正しく管理すべき存在でしたがそれが出来なくなってしまいました。神との良い関係を見失ったところから、地上の争いも生まれてきます。その関係を回復させるためにイエスは来て下さいました。イエスは、まさに命懸けで、この御父からの使命を果たして下さいました。神は、御子の十字架の死によって、なくてはならない平和を回復して下さったのです。

 それだけではありません。御父は、十字架に死んだイエスを復活させ、永遠の命に生きる者として下さいました。御子は、「死者の中から最初に生まれた方」となられたのです。神の子イエスが、人間性をとられたことの意味は大きいです。人となられたイエスの人間性に繫がって、私たちも御子イエスの復活に繫がることが約束されています。父なる神は、御子イエスの復活によって死を打ち砕き、永遠の命を与えようとしておられるのです。イエス昇天後、聖霊の降臨と共に、地上に教会が生まれます。イエスはその教会の頭です。私たちもこの教会に招かれ、洗礼の恵みを頂きました。大きな恵みです。主・キリストに結ばれることによって、私たちもキリストの体の一部とされ、教会を形作る一員とされているのです。

 イエスの十字架と復活によってこの恵みは実現されました。イエスを信じるとは、ただ心の中で信じることだけではありません。キリストの体である教会に結ばれることによって、聖霊の助け導きの中で、永遠の命が何であるかを徐々に分らせて頂けます。私たちは、イエスが十字架の苦しみと死を引き受けて下さったことによって本当の愛を知りました。この神の愛によって私たちには希望も与えられています。苦しむ必要のない方が愛によって苦しむ者、死に打ち勝って復活の命に生きる者となって下さった…、それは全て死をも恐れない神の愛のみ業なのです。この驚くべき神の愛に出会い、その交わりに生かされる私たちでありますように……。